SARAN HEART HEALINGの日記

風の時代 龍とつながり軽やかに生きる

毒母から愛しき母と思えるまで ①

わたしの母は毒母である。
幼き日々、時に猛毒と言えるほどの脅威で君臨していた。

母は84歳。困ったちゃんではあるけれど、それも面白いと思える

今日この頃である。


わたしが、どのような変遷を辿って、許すまじ毒母から
確かに愛されているのだと今の穏やかな気持ちに至ったかを綴ってみます。


毒親問題の渦中にある方は
ご自分の体験がフラッシュバックして
読んでいる最中にお辛くなったら
すぐに読むのをやめて、楽しいサイトに移って欲しい。

今振り返ると、私の母に対する問題は

親への依存→脱却までの葛藤→自分への許し
→親への許し→自分への愛→親への感謝
と変容して行ったと言える。

母は、私への教育には余念がなかった。
3才から習ったピアノの練習では
間違えようものなら、物差しというムチが飛び
私を橋の下から拾って来たという話が十八番だった。

髪の毛を切ってもらうのは
何故か床屋さん。

小学生になった私は、おしゃれな同級生を
うらやましく思い、髪の毛を伸ばし始めた。

髪が伸びて来ると、だらしないのはダメ!
と、何故かツインテールにさせられた。

私の自主性を伸ばすという頭は
ハナからない。
髪の毛を結くことは
母親としての役目と信じていたに違いない。

子供の髪はコシが無い。
毎朝セルロイドのブラシで
「やりづらい。動くな。」と
コツーンとやられた。

この朝の忙しいときに、余計な仕事を増やしてこの子は!!という

怒りが感じられた。

それでも髪を伸ばしたい私は
ガマンした。
ガマン。ガマン。。ガマン。。。

「だって、引っ張られて痛いものは痛いんだ!」
ある日とうとう爆発した。

スッとどこかへ消えた母。
戻ったとき、私のツインテールの片割れは
見事にジョキリと消えていた。

茫然自失とは正にあのことだろう。

次のシーンは美容院のパーマ液の匂いと、
髪の毛ざんばらな鏡の中の私。
それしか記憶はない。

 

それ以降の小学校生活をショートカットで通したのは、

その恐怖があったのか、それすら記憶が定かではない。

 

4年生になると、中学を受験したいか?と聞かれ

当然有無を言える状態ではなく、塾通いとなった。

 

ピアノもやめ、バレエもやめ、絵もやめ、当時習い事を

していたものは全部やめさせられた。

自主的に習ったものは無いし、諦めが入っているので、心は動かない。

 

それでも、ピアノの先生が引き留めていた姿と、母の泣いていた姿は

記憶している。母は完全にウソ泣きで、劇場型そのものであり、

教室を出た瞬間から、私は傍観者となり母を観察していたことを

思い出す。そこに感情が無かったように思う。


また、母にとって漫画は悪であり、何の意味もなさないもので

見つかると尽く捨てられた。


子供のくせに!

と、意思を持つことは許さないようなところがあり、

母にとって、子供の物は自分で処理して良いものだった。


子供に突きつける答えは白か黒か、
2つに1つ。しかも決定権は母にしかないのだ。
そして、自分自身はいつもグレーゾーンにいるタイプだった。

高校生のある日。
当時、百恵さんの「赤いシリーズ」を
見ないでは翌日の会話に乗り遅れる時代。
夢中になって見ていると、
突然TVの画面が真っ暗になった。

コンセントを抜き、コードをジョキリ。

おそらく、私が生返事をしていたことに
腹を立てたのだろう。


暫く修理しなかったのは
父が母の気の済むようにしないと
またジョキリかと予想したのかも知れない。

祖母はとうに亡くなり、祖父も同居で自営だった我が家は
母がいないと生活が回らないのも、歴然たる事実だった。


私が長じてからの記憶にある祖父は、
寡黙で我慢強く、どこか超然とした存在だった。


10歳になるやならずで丁稚奉公に上がり、
戦後、満洲から家族を欠くことなく引き揚げて来て
言い知れぬ苦労をしたのだろう。
穏やかに暮らしたい。が口グセの大人しい人だった。

母は祖父がTVを見ていても、平気で電源を切る人だった。

おとなしい祖父は部屋に戻る。

 

テレビは1台しかなく、戻った部屋での生活を思うと

今でも胸が詰まるが、祖父は強く逞しく、97まで生きた。

母とも分かり合える部分はあったのだと思う。


その祖父に対しても極め付けは、事あるごとの無視であり、
誰かを敵に仕立て上げるやり方には閉口したものだ。

しかも事とは、母の機嫌を損ねることに尽きる。
口答えをしただけで無視の嵐。
私にとっては粛清とも言える間、母は只管私の反省を望んでいたに違いない。

2週間くらいしたある日、急に私を可哀想に思う瞬間が訪れるらしく、
手のひらを返したようにニコニコと接してくる日があるのだ。
それを待ち望み、何度も繰り返された結果、嫌悪感に苛まれるように
なって行った。

周りの友達に話しても
うまく伝わらない。
何度「だって親でしょう?」と言われたことか。

社会人になっても残業で夜遅く帰宅しようものなら
会社の上司にまで電話して来た。
過干渉、過保護の極みである。

たまらず私は22才で結婚という道を選んだ。
家を出たい一心で成就させた幸せは
3年を待たずに破綻した。

 

今日はここまで。